戦争について思うこと(両親の戦争体験)

最近、海外ではウクライナに続きイスラエルでも戦争が勃発し連日多数の死者が出ています。また北朝鮮や中国の脅威増大の影響で日本でも防衛費を増やす方針となり、自衛隊は南西諸島への基地展開を進め、敵基地へ反撃できる米国製長距離巡航ミサイル導入の話も出ています。
そうした中、私も亡き両親から聞かされた太平洋戦争における戦争体験談を久々に思い出しましたので、ご紹介したいと思います。

両親はいずれも昭和3年(1928年)生まれで、現在生きていれば95歳という年代です。その両親が現在の高校2年から3年(16~17歳)の時、父は旧海軍、母は軍需工場で約1年間戦争を体験しています。

当時旧制中学に在学中だった父は、自分も戦わないと日本は負けると思い、旧海軍飛行予科練習生に自ら志願して入隊しました。ところが既に戦況が悪化し訓練用の飛行機もまともに無い状況で、基礎訓練を終えた後は、「震洋(しんよう:太平洋を震撼させるの意味)」という、米軍艦艇に体当たり攻撃する250kgの爆薬を積んだベニヤ張りのモーターボートの操縦訓練を受ける中で終戦を迎えました。(この震洋は、フィリピンや沖縄では実戦に使われたようです)
出撃=100%の死という環境下での訓練で、父からは、あの海軍にいた1年で自分の人生観が変わったという話を何度も聞かされました。

一方、旧制女学校に在学中だった母は爆弾を作る軍需工場に動員され、爆薬を扱うため手が黄色になり、洗ってもなかなか色が落ちない状況だったとのことです。
そうした中、ある日米軍機が襲来し(エンジン1基の小型機だったとのことなので、日本近海に進攻していた航空母艦の艦載機と思われる)、低空からの機銃掃射を受け亡くなった同級生が出て、母は無事だったものの、銃弾が土煙を上げるところを見た時は生きた心地がしなかったとの話でした。

これらの話を思い出すと、最近は、北朝鮮のミサイル・偵察衛星の発射や中国の台湾進攻論があり、生活面では物価高になっているものの、今の日本は兵役(徴兵制)も無く、平和で良い国だということを改めて実感させられます。
私としては、微力ながらも、企業経営の支援を通じてこの平和な社会の維持に少しでも役立てればと思います。

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